勉強のやり過ぎは要注意なのか⁉️

第6回 『大分断』エマニエル・トッド PHP新書 1229

 

 教育業界に身をおいた都合上、受験勉強には一家言ある。単なる知識の詰め込みにとどまらず、物事を捉える一貫した視座や分析方法などを習得することは、その後の人生を必ずや豊かなものにするはずである。(経験上、中途半端な努力で中途半端な結果しか出せていない人が受験自体を批判しがちだ) 高等教育(大学以上)での「教養」liberal artsは確かにこの努力の上に成り立つものである。読み書きそろばん、そして論理的な思考は、今となっては死語であるエリートたちの「教養」の必要条件であろう。たとえ大学が就職への通過点としても、人生にとって高等教育の意義が無くなることはないと思っていただけに、トッドの論調は青天の霹靂であった。

 

 所得であれ、職種であれ、世代間で階層stratification・階級classを上昇させるために、学歴が必要であることを疑う人は少ないだろう。その意味で受験戦争も是とされてきただろうし(私の肯定理由とは大差あるが)、社会階層の流動性は正しく社会経済の発展のエネルギーであった。

 

 しかし年代の差こそあれ、高等教育への進学率の上昇による問題点が先進諸国で顕在化してきている、とトッドは言う。それは教育による階層化だと。高等教育が特権的な職業に就くための道具と化し、社会を階級化し、マルクス風に言えば、支配階級による自己の再生産を促進している… 私見では高等教育は社会的な流動性social mobilityを促すものと思っていたが、トッドはその反対で、社会階層の固定化の犯人として高等教育を名指しする。社会の大分断great divisionは教育によってもたらされたと。

 

 この認識の相違は経済環境とも関係があるように思う。つまり「お受験」から始まり大学・大学院までのコスト(塾、家庭教師、学校など)はかなりの金額になろう。高度経済成長期からバブル経済期までならともかく、その後の「失われた何十年(笑)」でこれを賄えたのはエリート層だけであったろう。つまり本来、能力主義meritocracyの要素が強いはずの受験、教育という分野に「階級の再生産」とが連関し始めたのである。単に毛並みの良さの問題ではなく、階級格差→経済格差→教育格差 の連関メカニズムが資本主義社会に組み込まれたのだ。社会の成長期には社会の流動性を促した教育が、ポスト成長社会では流動性にブレーキを踏む役割を担っていることになる。

 

 またエリート階級の再生産の資格としての高等教育では、そのエリート自身の質の低下が起こることも間違いない。彼らは高等教育という資格取得が目的であって、そこで何を学ぶかは面接試験の模範解答以上のことを考える必要もないからだ。プラトンは『国家』の中で「哲人政治」というエリート支配モデルを推奨しているが、そこで必要とされているのはエリートの知性と教養である。しかし現実、西洋社会でよく言われるノブレス・オブリージュnobleness obligeなんてもはや死語なのだろう。教育によって分断された社会で、エリート層の知性の衰退とモラルハザードは世界共通となっている、とトッドは言う。漢字の読めない大臣、社会調査といって歌舞伎町散策しちゃう事務次官番記者にセクハラする事務次官、公務なのにコネクトルーム予約しちゃう官邸スタッフ、親分のためなら公文書改竄もへっちゃらな高級官僚、IR誘致めぐってお金もらう政治家、嫁の選挙のために買収しまくる(立件に関しては疑義がないわけでもないが)法務大臣、そして森、加計、サクラの三点セットの総理(彼は成蹊だからまぁ…恩師の加藤節さんも苦言を呈していたし)思い出しただけで笑いが止まらない。もちろんシニカルだが。いや、笑い事では済まされない。

 

 しかしトッドは西洋とは異なる日本の特異性を指摘する。フランス、イギリス、アメリカは核家族個人主義を特徴とし自由と平等を中心価値とするが、日本は直系の家族構造を特徴とし権威主義(上意下達)と不平等を良しとすると。そんな日本社会をトッドは「階層民主主義」と名付ける。さらに日本の自民族中心主義ethnocentrismが階層間の分断の溝を埋めるかもしれないと示唆する。古来、島国である日本(「」付きの単一民族意識)の排他的な感情が国内において階層間の感情的差別意識を軽減させたと。簡単に言えば、外に敵がいると考えれば内は仲良くなれるという思考法…宇宙人が攻めてくれば、米中だって仲良くなれる!(→地球防衛軍

 

 でもよく考えればこれは最悪のデモクラシーだ。鎖国時代+身分制社会に先祖返りしたに他ならない。社会の流動性はない、競争的な政党システムもない、退廃したエリート層と物言わぬ大衆、これでは排他的になる前に、内部からじんわりと社会が崩壊していきそうだ。フランスなら「黄色いベスト運動」があり、イギリスでは「ブレグジット」があり、エリートと大衆のガチンコの「交渉」が民主主義をギリギリのところで機能させている。しかし日本にはその兆候がない。仮にメディアに取り上げられても、それが特定の政治勢力に先導されていることがほとんどだし…安保関連法案のときもシールズの学生を見て「彼らの就職は大丈夫なのか?」と心配するのが関の山だった。

 

 言うに及ばず、日本の最大の課題は「少子高齢化」だ。その解決の鍵は労働力人口の増加と若年化のはずだが、誰も真っ正面から移民問題を議論しようとしない。ドイツが逆に移民を活用して労働市場を活性化させ、経済成長を維持し、EUの盟主の座に着いているのとは対称的に。アメリカの目の上のたんこぶは中国とドイツであることをもうそろそろ我々は知らなければならない。排他的に国内の均一性を保持することだけに注力していては国力は先細りになるだけだ。

 

 もしこの均一性の保持の方針をエリート層が反故にすることがあるとすれば、それは人口知能AIの発展とも関係しよう。橋本健二は『新日本の階級社会』の中で以下のようなピラミッド構造を予期している。イメージとしては人口知能による労働力の代替であろうか。かつてのホワイトカラーが不必要となり、新たな階級社会が生まれると。問題はこれで移民問題がちゃらになるわけではないことだ。ホワイトカラーが減り、介護職などのブルーカラーの必要数は今後増加するわけで、問題はさらに深刻になる。やはり人口(女性の社会進出も含めて)と移民問題をこれからの日本は避けては通れない。

 

 最後に教育に話を戻して…日本の場合、一部の大学以外はほぼ全入のようだから、お金を払えば入れる大学と、お金をかければ受験のスタートラインに立てる大学とに分かれているようだ。前者なら高等教育を満足に理解する下地がないだろうし(厳しい評価ですみません、現場知ってるんで…)、後者なら入学自体が目的なのだからその先、勉強するはずもない。なんだ、日本の大学生ダメじゃん。これじゃ民主主義の人民demosたるはずがない。リンカーンの「人民の人民による人民のための政府」なんて言葉聞いたって、何にも感じないんだろうなぁ(笑)(←リンカーンのこの言葉もリンカーンが引用したものでオリジナルではないけど) 逆にかつての教え子で大学に行かずに、やりたいことのために専門学校を経てスキルを身につけて立派に稼いでいる人たちがたくさんいる。そして彼らの考えや批判は地に足が着いたものだから、アホな政治家や官僚たちの言葉よりも具体的で的をえている。そうアホなエリートと賢い大衆が交わる場所が「選挙」なんだ。だから双方に注文。エリートなら、代替可能で競合的な政党システムを作ること。大衆なら、自らの1票の重みで社会を変えるぞ!てくらいの気概をもって投票すること。そして日本の大争点に関して「交渉」し始めましょう!

 

 トッドの言う「日本人は少し秩序が乱れた方がいい」には大賛成だ。非生産的な権威主義的なシステムよりも、多少ゴタゴタしても実のある結果を生み出す民主主義社会の方が健全だ。そのためにもエリート層も大衆もちゃんと勉強いたしましょう!読み書きそろばん+教養、自分の興味あるものから手を出せばいい。遅くなんてない。この社会が継続する限り、私たちが民主主義社会の人民demosである限り…

 

 今現在、少子化も手伝い大学への進学率は50%にのぼる。その大半がAO入試や自他推薦などで、もはや予備校はその数が激減し、中身も面接練習場と化している。つまりお金を出して一生懸命勉強して大学入学する子は本当に一握りに過ぎない。少子化と不景気はその意味では不気味な連関を見せる。少子化で希望者がほぼ大学へ行けるなか、不景気によってそのスキルを身に付けられるのは一部のエリート層のご子息たちだけだ。もしかしたら以前よりエリート意識は大きくなっているのかもしれない。「上流国民・下流国民」なんて下品な言葉やクイズ番組で東大生がやたらとキャスティングされているのはその証左かもしれない。それゆえエリートならその社会的責任も学ばなければならないはずだ。

 

 かつて院試の面接を終えて研究室に戻ってきた教授が、最近は東大法学部の子が「丸山真男」も読んでいないんだよ…と嘆いたことを思い出した。「丸山真男」の読書経験がGDPをあげるわけではないが、それでもエリートの矜持は忘れてほしくない。


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