勉強のやり過ぎは要注意なのか⁉️

第6回 『大分断』エマニエル・トッド PHP新書 1229

 

 教育業界に身をおいた都合上、受験勉強には一家言ある。単なる知識の詰め込みにとどまらず、物事を捉える一貫した視座や分析方法などを習得することは、その後の人生を必ずや豊かなものにするはずである。(経験上、中途半端な努力で中途半端な結果しか出せていない人が受験自体を批判しがちだ) 高等教育(大学以上)での「教養」liberal artsは確かにこの努力の上に成り立つものである。読み書きそろばん、そして論理的な思考は、今となっては死語であるエリートたちの「教養」の必要条件であろう。たとえ大学が就職への通過点としても、人生にとって高等教育の意義が無くなることはないと思っていただけに、トッドの論調は青天の霹靂であった。

 

 所得であれ、職種であれ、世代間で階層stratification・階級classを上昇させるために、学歴が必要であることを疑う人は少ないだろう。その意味で受験戦争も是とされてきただろうし(私の肯定理由とは大差あるが)、社会階層の流動性は正しく社会経済の発展のエネルギーであった。

 

 しかし年代の差こそあれ、高等教育への進学率の上昇による問題点が先進諸国で顕在化してきている、とトッドは言う。それは教育による階層化だと。高等教育が特権的な職業に就くための道具と化し、社会を階級化し、マルクス風に言えば、支配階級による自己の再生産を促進している… 私見では高等教育は社会的な流動性social mobilityを促すものと思っていたが、トッドはその反対で、社会階層の固定化の犯人として高等教育を名指しする。社会の大分断great divisionは教育によってもたらされたと。

 

 この認識の相違は経済環境とも関係があるように思う。つまり「お受験」から始まり大学・大学院までのコスト(塾、家庭教師、学校など)はかなりの金額になろう。高度経済成長期からバブル経済期までならともかく、その後の「失われた何十年(笑)」でこれを賄えたのはエリート層だけであったろう。つまり本来、能力主義meritocracyの要素が強いはずの受験、教育という分野に「階級の再生産」とが連関し始めたのである。単に毛並みの良さの問題ではなく、階級格差→経済格差→教育格差 の連関メカニズムが資本主義社会に組み込まれたのだ。社会の成長期には社会の流動性を促した教育が、ポスト成長社会では流動性にブレーキを踏む役割を担っていることになる。

 

 またエリート階級の再生産の資格としての高等教育では、そのエリート自身の質の低下が起こることも間違いない。彼らは高等教育という資格取得が目的であって、そこで何を学ぶかは面接試験の模範解答以上のことを考える必要もないからだ。プラトンは『国家』の中で「哲人政治」というエリート支配モデルを推奨しているが、そこで必要とされているのはエリートの知性と教養である。しかし現実、西洋社会でよく言われるノブレス・オブリージュnobleness obligeなんてもはや死語なのだろう。教育によって分断された社会で、エリート層の知性の衰退とモラルハザードは世界共通となっている、とトッドは言う。漢字の読めない大臣、社会調査といって歌舞伎町散策しちゃう事務次官番記者にセクハラする事務次官、公務なのにコネクトルーム予約しちゃう官邸スタッフ、親分のためなら公文書改竄もへっちゃらな高級官僚、IR誘致めぐってお金もらう政治家、嫁の選挙のために買収しまくる(立件に関しては疑義がないわけでもないが)法務大臣、そして森、加計、サクラの三点セットの総理(彼は成蹊だからまぁ…恩師の加藤節さんも苦言を呈していたし)思い出しただけで笑いが止まらない。もちろんシニカルだが。いや、笑い事では済まされない。

 

 しかしトッドは西洋とは異なる日本の特異性を指摘する。フランス、イギリス、アメリカは核家族個人主義を特徴とし自由と平等を中心価値とするが、日本は直系の家族構造を特徴とし権威主義(上意下達)と不平等を良しとすると。そんな日本社会をトッドは「階層民主主義」と名付ける。さらに日本の自民族中心主義ethnocentrismが階層間の分断の溝を埋めるかもしれないと示唆する。古来、島国である日本(「」付きの単一民族意識)の排他的な感情が国内において階層間の感情的差別意識を軽減させたと。簡単に言えば、外に敵がいると考えれば内は仲良くなれるという思考法…宇宙人が攻めてくれば、米中だって仲良くなれる!(→地球防衛軍

 

 でもよく考えればこれは最悪のデモクラシーだ。鎖国時代+身分制社会に先祖返りしたに他ならない。社会の流動性はない、競争的な政党システムもない、退廃したエリート層と物言わぬ大衆、これでは排他的になる前に、内部からじんわりと社会が崩壊していきそうだ。フランスなら「黄色いベスト運動」があり、イギリスでは「ブレグジット」があり、エリートと大衆のガチンコの「交渉」が民主主義をギリギリのところで機能させている。しかし日本にはその兆候がない。仮にメディアに取り上げられても、それが特定の政治勢力に先導されていることがほとんどだし…安保関連法案のときもシールズの学生を見て「彼らの就職は大丈夫なのか?」と心配するのが関の山だった。

 

 言うに及ばず、日本の最大の課題は「少子高齢化」だ。その解決の鍵は労働力人口の増加と若年化のはずだが、誰も真っ正面から移民問題を議論しようとしない。ドイツが逆に移民を活用して労働市場を活性化させ、経済成長を維持し、EUの盟主の座に着いているのとは対称的に。アメリカの目の上のたんこぶは中国とドイツであることをもうそろそろ我々は知らなければならない。排他的に国内の均一性を保持することだけに注力していては国力は先細りになるだけだ。

 

 もしこの均一性の保持の方針をエリート層が反故にすることがあるとすれば、それは人口知能AIの発展とも関係しよう。橋本健二は『新日本の階級社会』の中で以下のようなピラミッド構造を予期している。イメージとしては人口知能による労働力の代替であろうか。かつてのホワイトカラーが不必要となり、新たな階級社会が生まれると。問題はこれで移民問題がちゃらになるわけではないことだ。ホワイトカラーが減り、介護職などのブルーカラーの必要数は今後増加するわけで、問題はさらに深刻になる。やはり人口(女性の社会進出も含めて)と移民問題をこれからの日本は避けては通れない。

 

 最後に教育に話を戻して…日本の場合、一部の大学以外はほぼ全入のようだから、お金を払えば入れる大学と、お金をかければ受験のスタートラインに立てる大学とに分かれているようだ。前者なら高等教育を満足に理解する下地がないだろうし(厳しい評価ですみません、現場知ってるんで…)、後者なら入学自体が目的なのだからその先、勉強するはずもない。なんだ、日本の大学生ダメじゃん。これじゃ民主主義の人民demosたるはずがない。リンカーンの「人民の人民による人民のための政府」なんて言葉聞いたって、何にも感じないんだろうなぁ(笑)(←リンカーンのこの言葉もリンカーンが引用したものでオリジナルではないけど) 逆にかつての教え子で大学に行かずに、やりたいことのために専門学校を経てスキルを身につけて立派に稼いでいる人たちがたくさんいる。そして彼らの考えや批判は地に足が着いたものだから、アホな政治家や官僚たちの言葉よりも具体的で的をえている。そうアホなエリートと賢い大衆が交わる場所が「選挙」なんだ。だから双方に注文。エリートなら、代替可能で競合的な政党システムを作ること。大衆なら、自らの1票の重みで社会を変えるぞ!てくらいの気概をもって投票すること。そして日本の大争点に関して「交渉」し始めましょう!

 

 トッドの言う「日本人は少し秩序が乱れた方がいい」には大賛成だ。非生産的な権威主義的なシステムよりも、多少ゴタゴタしても実のある結果を生み出す民主主義社会の方が健全だ。そのためにもエリート層も大衆もちゃんと勉強いたしましょう!読み書きそろばん+教養、自分の興味あるものから手を出せばいい。遅くなんてない。この社会が継続する限り、私たちが民主主義社会の人民demosである限り…

 

 今現在、少子化も手伝い大学への進学率は50%にのぼる。その大半がAO入試や自他推薦などで、もはや予備校はその数が激減し、中身も面接練習場と化している。つまりお金を出して一生懸命勉強して大学入学する子は本当に一握りに過ぎない。少子化と不景気はその意味では不気味な連関を見せる。少子化で希望者がほぼ大学へ行けるなか、不景気によってそのスキルを身に付けられるのは一部のエリート層のご子息たちだけだ。もしかしたら以前よりエリート意識は大きくなっているのかもしれない。「上流国民・下流国民」なんて下品な言葉やクイズ番組で東大生がやたらとキャスティングされているのはその証左かもしれない。それゆえエリートならその社会的責任も学ばなければならないはずだ。

 

 かつて院試の面接を終えて研究室に戻ってきた教授が、最近は東大法学部の子が「丸山真男」も読んでいないんだよ…と嘆いたことを思い出した。「丸山真男」の読書経験がGDPをあげるわけではないが、それでもエリートの矜持は忘れてほしくない。


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ひと休み

Breaktime

 

 安倍長期政権が突然その幕を閉じた。内政、外交、経済と多角的にその評価はされるべき所だが、一番の罪はその在任期間の長さであろう。「絶対的権力は絶対的に腐敗する」(英、アクトン卿)はまさに権力ゲームの鉄則である。政治家に及ばず官僚エリートたちのモラルハザードは「文春砲」に任せつつ、緊張感のある国政の運営を次期宰相(Prime Minister)には期待したい。

 

 自民党の後継総裁選びは「数の論理」からするともう決しているらしい。確かにwith コロナの真っ只中にドラスティックな方向転換は望むべくもないが、人事だけでなく、政策全般においてどう微調整していくのか、楽しみにしてる。かつての「党高政低」(自民党>政府)といった政治状況は、派閥政治と族議員が政策決定過程に大きな影響力をもったわけだが、選挙制度の変化もあり、派閥自体のパワーが減少するなかで、党執行部(特に幹事長)と政府官邸のパワーが相対的に強まった。現在では官邸(安倍政権では経産省警察庁)、官僚エリート(財務省中心)、党執行部のトライアングルが政権の権力基盤なのだ。(「官官党」で「政官財」のトライアングルはちょっと古いかも知れない)

 

 やっぱり選挙はドキドキする。学級委員だって、生徒会だってワクワクするんだから、一国の宰相を選ぶ戦いは、その勝敗が明らかでも、毎日情報番組を見てしまう(笑) 政治学にはアナウンスメント効果として、勝ち馬に乗る「バンドワゴン効果」と、判官贔屓(ホウガンビイキ)の「アンダードッグ効果」の2つが良く知られているが、今回は完全に前者であろう。多数派の言うことが正しいんだという「バンドワゴンの誤謬」が成り立ったわけである。(成立要因には、衆人に訴える論証の他、権威に訴える論証、伝統に訴える論証、新しさに訴える論証があるらしい) 英国政治でも保守党、労働党自由党の各支持者が選挙区の状況を考慮して、第1支持政党でない第2支持政党に投票する事は良くある。(←「戦略的投票」という) しかし当事者たちの興味はもはや人事をめぐる主導権争いだ。魑魅魍魎が跋扈する永田町を次期宰相がどう地均しするのか、しないのかは、確かにその後の政権運営の試金石にはなるだろう…

 

 安倍政権の罪は長すぎる在任期間だと言ったが、それは利害関係者のモラルハザードだけでなく、その期間中に自らに代えうるリーダーの育成に力を注いで来なかったこともある。派閥機能の低下とも思えるが、政党としてリーダーの育成は必須である。寝首をかかれないか心配なのかも知れないが、やはり今回のような所謂「禅譲」では、政党自体の生命力の無さを感じてしまう。

 

 「アンダードッグ効果」なら最近まで国民から人気があるとされた石破にも…と思っても見たが、候補者が出揃った段階で国民の支持は菅へと雪崩をうった。明らかな「バンドワゴン効果」である。まぁ、仕方ないか、どう見ても石破の顔がイケメンの九郎判官義経には見えないのだから。頼朝のために命をかけて働いた義経と、防衛相断って内閣の批判ばかりしてきた石破とでは話が違うわけだ。ほぼ都市伝説の義経=チンギス・ハン説からしても、彼がこの国のトップになることはなさそうだ。(笑)

 

「民衆は無知であるが真実を見抜く力はある」(マキャベリ君主論』) まずはこの言葉を信じてみよう🎵 

 


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「本当の私」探し

第5回 『私とは何か』平野啓一郎講談社現代新書2172

 

  会ったこともないのに気になる人がいる。同世代なのに群を抜いて才能があり、嫉妬してしまうほど華麗な文章を書く人、それが平野啓一郎さんだった。京都大学法学部在学中に最年少で芥川賞を受賞するなんて…「怪物君」の登場だと感じたことを覚えている(ちなみに審査員の中で平野の受賞に反対したのは石原慎太郎だけであった)。『日蝕』『一月物語』と立て続けに発表された彼の作品は難解さとエロスに満ちており、20代そこそこの私にはやっつけたい知的対象であった。しかし長編『葬送』を前にその好奇心もあっけなく砕けた(笑) それからはもっぱら平野さんのエッセイの読者となった。

 

 本書では彼の小説の登場人物に焦点を当てながらも、社会・心理学的に「人間」とはなんぞや?という問いに対しての回答を行っている。そこでまず最初に「個人」(individual)を吟味する。これはよく聞く話だが、この単語はin+dividualから成り、文字通り「分割不可」の意味であったが、ルネサンスや近代の宗教・政治分野での革命の後、「個人」の意味が確立されたんだと。人間中心主義に復古したルネサンス、神(聖書)と信者の関係を重視した宗教改革、そして一人一人の参加によって権力の在り方が決まるデモクラシーと、まさに暗黒の中世に光が射し込み(→enlightenment「啓蒙」)、一人一人が「個人」としてクローズアップされた象徴がこのindividualであったのだろう。(日本で明治時代に翻訳されたのは周知の通り)

 

 確かに私たちは個人の在り方を次のように考えている。まず核に「本当の自分」=自我があり、その回りに表面上、色々な顔をした私(仮面、ペルソナ、キャラ、嘘の自分など)がいて、ちょうど桃のような構造をしていると。これに対して平野さんはこう反論する。実体がなく幻想に過ぎない「本当の自分」を唯一無二のものとして考えてはいけないと。そうではなくあなたが大好きなAさんに見せる顔も、怖い先生のBさんに見せる顔も、たまたま乗ったタクシーの運転手のCさんに見せる顔も、すべて「本当の自分」であると。そこで彼は個人(individual)に代わって「分人」(dividual)という概念を作り出す。一人の人間は複数の分人のネットワークであり、「本当の自分」という中心は無いんだと。

 

 会社で後輩いじめ専門のお局D子が、家庭ではとても優しいお母さんであることもある。家庭での彼女も職場での彼女も「本当の自分」である。銀行のお堅い支店長EさんがSMクラブでMの上級者であることもある。昼の彼も夜の彼もどちらも「本当の自分」なのだ。こういった平野さんの見方は実体が伴うだけに説得力がある。

 

 彼の作品の『顔のない裸体たち』は、出会い系サイトで知り合った男女が「顔のない裸体」投稿にのめり込んでいく姿を描いた作品である。リアルな世界の自分が「本当の自分」なのか、ネットの世界の自分が「嘘の自分」なのか、はたまたその逆なのか、リアルとネット世界の間に本当と虚構の境界線を引くことの困難さが、そこでは描かれている。この作品などを経て彼は全部「本当の自分」じゃんと思索を深めていったようだ。

 

 逆に私達が学生の頃にやや流行っていたポストモダンのように、人間を玉ねぎと捉え、社会的関係性や属性を剥ぎ取っていったら何も残らず、「本当の自分」なんて最初から無いんだと考えることにも彼は嫌悪感を抱く。確かに実体として感覚のある事柄を観念でゼロにされては不満なのだろう。近代哲学者デカルトの「我思う、故に我あり」を否定することがポストモダンなのだろうけど、平野さんでなくてもちょっと閉口してしまう。(笑)

 

 では「分人」の総体からなる人の個性はどう捉えられるかというと、それは決して生まれつきの生涯不変のものではなく、他者とどう付き合うのかで、自分の中の分人の構成比率が変化し、その総体が個性となると。なるほど他者との関係性に基づく分人の量と質の在り方がその人の個性を決めるのだ。例えば、ストーカー事件などは被害者は(加害者を全く知らない場合)分人でもないのに、加害者の一方的な分人としての構成比率拡大という非対称性が生んだ悲劇とも言えよう。平野さんのこの分人の概念の優れた点は、人間を文字通り他者との関係性の中で捉えようとすることであり、社会学的な視点が豊富なところであろう。(文学部じゃなくて、法学部出身てことも影響してるのかな?)

 

 そして平野さんは彼らしく最後に人間の大問題の「恋愛」について語りだす。「恋」は一時的に燃え上がって何としても相手と結ばれたいと願う激しく強い感情(=エロス)、一方「愛」は関係の継続性が重視(=アガペー)される概念だと。前者は三島由紀夫、後者は谷崎潤一郎が得意とするところですね。さて「恋愛」の問題はやはり愛の継続性ということになる。継続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相互のお陰でそれぞれが自分自身に感じる何か特別な居心地の良さだという。シンプルに言えば、「愛」とはその人といる時の自分の分人が好きという状態、つまり他者を経由した自己肯定の状態となる。な~んだ、enjoy myselfじゃん(笑) 「お前がいるから俺は幸せ」+「あなたがいるから私は幸せ」、互いにかけがえのない存在、これが「愛」の継続性なんですね。

 

 人生の大先輩(女性)によくある遠距離恋愛の相談を軽くしたことがある。一緒にいる時は楽しいんだけど、会えない時間が長いと不安なこともあると(笑)(郷ひろみにならい「会えない時間が愛育てるのさ」とはいかないよ) 大先輩いわく「会ってる時、お互い楽しいならそれでいいじゃない」と。正直、会ってる時が「本当の彼女」なのか否か私はその時点では疑心暗鬼になっていたのだろう。大先輩はそれ以上言わなかったが、発想は平野さんと同じなんだろうと今回理解できた。会ってる時の彼女も「本当の彼女」、離れている時の彼女も「本当の彼女」ということだ。問題はお互い会ってる時にいかにenjoyするのかということだけだ。

 

 やはり人生の大先輩の言うことは聞かないとダメですね(笑)

 

 最後にもう一点。仮に桃型の個人概念なら、浮気を「(本当の自分ではなく)間違った自分が行ったことでございます(→魔が差した)」と言い訳もできるが、分人モデルではどの分人も本当の自分となるわけで、その分言い訳が成り立たない。かつての大富豪のように、奥さんも愛人も幸せにできる度量(経済力だけでなく、関係者の理解も必要)がないのなら、夜遊び程度でおさえておかないと痛い目にあいますよ。(笑) 世のお父様方、要注意ですぞ‼️

 

愛は勝つ と歌う青年

愛と愛が戦う時はどうなるのだろう

俵万智

 

 


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苦手なお金の話を少し

第4回 『経済を読む力』大前研一小学館新書358

 

 どうにも経済・お金の話をするのが苦手で仕方ない。一応、マクロ、ミクロ、マルクスを問わず(制度もレギュラシオンもね)最低限の勉強はしてきたが、これはもう体質と言うしかない。安全資産として金の保有をすすめる話を聞くたびに、「ひとたび戦争や自然災害に見舞われた時、金(gold)でお腹は満たされないじゃん」て正直感じてしまう(笑) 

 

 しかしだ、高校の政経の授業では、いつも眠たい目をこすりながら憲法の話を聞いていた子供たちが、為替や株価の話となると目を輝かしていたことを今でも覚えている。ちょうどFXが流行りだした頃だった。その野性的な子供たちの目差しに、自分の経済現象に対する興味不足と勉強不足をその時痛感していた。

 

 何事もそうなのかもしれないが、理論(教科書)と実際の現象(経済統計)は時に一致しない。まさにヘーゲル『法の哲学』序文の「ミネルヴァの梟は黄昏時に飛び立つ」である(現実の成熟→「理論の王国」到来)。 つまりグローバル化時代にはそれに適当な経済への眼差しが必要とされるわけで、「ケインズはもはや死んだ」のかもしれない。

 

 そこで経営者でなおかつ類い稀なウォッチャーである大前研一さんの本を今回は読んで、グローバル化時代の経済現象を理解する取っ掛かりとしたい。

 

 大前さんは「円安は魔法の言葉」だと指摘する。その典型例として安倍総理の頭の中を、日銀による量的金融緩和→(札を刷って)円安誘導→賃金上昇→景気アップと紹介する。教科書的には円高は輸出競争力を減じるが、円安はその反対で、どうやら政治家や大企業経営者そして一部の経済学者にとって円安は景気浮揚の魔法の言葉だと。しかし第2次安倍政権誕生後(2012年)、今日に至るまで、ブレグジット(英国のEU離脱騒動)はあったものの、約20円ほど円安になったが、賃金は上がったのだろうか? 確かに2012年以降賃金は多少の上昇はあるものの(経済規模が同等の国とは比較にならない程少しだが)、過去25年の名目賃金上昇率は、OECD(経済開発協力機構)の主要国の中で唯一マイナスという事実に愕然とする。大前さんは「もはや円安は日本経済にほとんど影響を与えていない」と言う。

 

 確かに政治家や大企業経営者の円安信仰は理解できる。それはプラザ合意のトラウマのせいだろう。プラザ合意(1985年)は80年代初頭、双子の赤字財政赤字貿易赤字)に苦しんでいた米国経済を救うべく、米日英仏西独の5か国によるドル安誘導の「協調介入」を約束するもので、巨額の対米貿易黒字を出していた日本(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は1979年出版)がターゲットであった。会議に出席した蔵相竹下登(DAIGOのお爺さん)が成田のゴルフ場から姿を消し、ゴルフウェアのまま飛行機に搭乗した話はあまりに有名だ。確かに1ドル235円が合意後1年後で1ドル150円となったわけだから、その急激な円高リスクが政策決定者や輸出企業経営者しいては日本国民にとって忘れられないトラウマになったことは間違いない。プラザ合意を「第2の無条件降伏」と呼ぶ識者もいるくらいに…

 

 しかしこの円高圧力のもとでも日本企業の輸出数量は落ち込まなかった。なぜなら80年代後半は日本製品の質が高かったためで、さらに90年代トヨタを筆頭に主要な製造業の企業が現地生産のため多国籍化の道を選択したからだ。例えばトヨタは研究拠点(8ヶ国)と生産拠点(50ヶ国)をいわゆるBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)、VISTAベトナムインドネシア南アフリカ、トルコ、アルゼンチン)、MENA(中東、北アフリカ)に置いた。アメリカ国内には生産拠点が8ヶ所もある。現地生産・現地販売なら為替差損益も気にすることはなくなるわけだ。企業のたゆまむイノベーショングローバル化への対応で「円高耐性」を日本経済が身に付けたと大前さんは結論づける。 

 

 また別の側面として、現状GDPに占める貿易の割合は輸出15%、輸入17%であって、その差の2%が為替リスクにさらされる。仮に1ドル120円から110円に円高になった場合の為替差損益は8%なので、影響度は0.16%となる(皆さん大丈夫ですよね(笑))。よってこの程度の数値なら為替リスクを過大評価する必要もないのかもしれない。かつては「貿易立国」「輸出大国」と言われた日本経済はもはや存在せず、為替ニュートラルな「円高耐性」を身に付けた「内需大国」へと変貌したと大前さんは言う。

 

 逆の見方をすれば、為替に対して貿易(モノやサービスの実物取引)の影響力も下がってきている。国際収支には相殺されて出てこないが、今や金融取引は実物取引の95倍にもなる。これではバーナンキ(元FRB議長)に「貿易は犬の尻尾」と言われても仕方がない。(笑)

 

  大前さんの日本のグローバル企業に対する評価はかなり高いものがある。世界中の企業と経営者を見てきた彼の眼力は嘘はつかないはずだ。そして彼は最後にこうも言う。「日本の経済政策は二流以下だと」…永田町や霞ヶ関日本橋あたりにはケインズポール・クルーグマン(まだ存命)が生きているのだろう(個人的にはクルーグマンを批判した小林慶一郎(日本財団)推しなのだが)。

 

 最後にちょっと気になる話を。日常目にする為替指標は名目為替レートと言う。それに対して「実質実効為替レート」と呼ばれる指標を昨今耳にする。そうトランプ大統領が日本の為替水準が円安過ぎて米国の輸出がふるわないとケチをつけてきた時の指標だ。一応、定義としては「対ドルの他、ユーロ、英ポンドなど主要通貨に対する相対的な値動きを、各国・地域との貿易量、物価水準の相対的な差などをもとに加重平均して求められる指数」(はい、これ1度でイメージできたらなかなかの強者)となる。基本となるのは高校の政経でも教えた「購買力平価説」(マクドナルドⓂ️🍔🍟の絵を描いて説明しましたよ)で、ある通貨のモノやサービスの購買力を指数化したものだ。

 

具体例で見てみると、

日本の対米名目為替レートは

1985年1ドル240円→

2018年1ドル100円…これは円高(ドル安)

これに対して実質実効為替レート指数は

1985年80ポイント→

2018年70ポイント…これは円安 

☆指数は値が大きくなれば円高を示す

☆日本は1995年をピークとして円安の継続中

 

 この名目と実質実効の傾向の違いの原因が何かと言えば、それはズバリ日本経済がデフレもしくはディスインフレであるからである。経済新興国の都市のマンションが日本並みに価格が高くて驚くこともそう珍しくなくなってきたことが、その証左である。日銀の黒田総裁がトランプ大統領からの批判に「これ以上の実質実効為替レートの円安はないだろう」と円安の天井を指摘したが、その言葉が心理的効果に止まらず、実効性を持つためにもデフレからの脱却が必要となる。円安によって景気浮揚を図るのではなく(これはもう失敗を経験済み)、逆に景気浮揚によって実質実効為替レートの誘導を試みることに結果的になるわけだ。そう、大切なのは景気浮揚!

 

 トランプ大統領に「とにもかくにもグローバル経済なんだから、ちまちま意味のない為替レートの話なんて持ち出して脅かすんじゃねぇよ!」と声を大にして言える政治家は出てこないだろうか?(笑) 麻生さんなら言えそうかなぁ… よくトランプ大統領は経営者で、すべて思考がディールだと言う人がいるが、まあトランプの事業で成功していると言えるものは無いみたいだし、日本はかつてのプラザ合意から学んだ経験をいかして今後の日米交渉に臨んでもらいたい。浅知恵のジャイアンに正々堂々、根気よく説明してあげる賢い一流の「のび太」君に日本がなればいいだけなのだから。

 

 
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生きとし生けるもの

第3回 『人類哲学序説』梅原猛岩波新書1422

 

 「巨星墜つ」、人それぞれにその対象は異なるものの、梅原猛さんの訃報(2019年没、享年93歳)は私にとってまさしくその通りだった。学生時代に読んだ梅原さんの『隠された十字架』は、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』を徹夜して読んだ時と同じ興奮レベルであった。法隆寺が仏法の鎮護のためではなく、怨霊と化した聖徳太子を鎮魂する目的で建てられたとする仮説は、受験戦争を終えたばかりの脳ミソにはあまりにも刺激的だったのだろう。

 

 梅原さんは西田幾多郎が去った京大で哲学の思索を始める。横文字を縦文字に変換する単純作業(=翻訳)ではなく、日本文化の原理の中に西洋文明の行き詰まりを解決するであろう新しい指針を見い出だそうとする。地域的な特性を帯びた思想ではなく、普遍的な「人類」の立場からの思想の体系化を自らの言葉で試み、それが所謂「梅原日本学」と結実することになる。

 

 では、梅原さんの考える日本文化の原理・本質は何かというと、それは「天台本覚思想」だと言う。伝教大師最澄が開いた天台宗は、円珍・円仁の中国留学を経て、真言宗弘法大師空海が開祖)と同じく密教化していき、中興の祖良源によって完成された(天台宗台密真言宗東密)。梅原さんはシンプルに「天台宗真言宗=天台本覚思想」と捉える。

 

 そしてこの天台本覚思想の中心概念として『草木国土悉皆成仏』を紹介する。それは生きとし生けるもの(人間だけでなく、動物も植物、土など)すべてが仏性(仏になる可能性)を持ち、救われ、仏になれる、という思想である。すべての人間が仏性をもつとした天台宗と、草木の中にも大日如来が宿っているという真言宗のハイブリッドに他ならないと。

 

 このような思想は仏教生誕の地インドにはないらしい。確か、埴谷雄高の『死霊』の最後の審判の場面で、ブッダがチーナカ豆(=ヒヨコ豆)に非難されている。動物は食べてはいけなくて、なんで植物は食べて良いのかと(精進料理を想起せよ)…ブッダが天台本覚思想を知っていたら、なんと答えただろうか。

 

 しかし天台本覚思想が日本文化の本質となるにはやはりその文化的素地が無くてはならない。梅原さんはそれを10万年続いた狩猟採集文化・漁労採集文化に求め、特に縄文文化を評価する(岡本太郎も日本で一番の芸術は縄文土器だと言っていたが(笑))。その生活文化の中でアニミズム(精霊信仰)が生まれ、その後も多神教(「八百万神」を崇める)である原始神道と6世紀伝来した仏教の影響のもと、10世紀に天台本覚思想が完成したと。

 

 狩猟採集文化・漁労採集文化を素地として、アニミズム多神教を経ていた日本において天台本覚思想が、その本質的な地位を占めることはごく自然であったかもしれない。仏教が民衆化した鎌倉仏教(浄土、禅、法華)においても天台本覚思想が前提とされていた、と梅原さんは言うが、これについては仏教学者から猛反論あったようだ…

 

 さらに梅原さんは「草木国土悉皆成仏」の天台本覚思想の普遍化を試みる。思想の素地である狩猟採集文化・漁労採集文化は歴史的には世界中で経験されており、その意味ではアメリカ大陸の先住民やオーストラリア大陸アボリジニーそして日本のアイヌ民族の皆さんは、まさに天台本覚思想のメインストリームなのかもしれない。だから梅原さんはこの思想を「人類」哲学なんだと言う。西洋文明が行き詰まった今だからこそ、地域的な特性を帯びない普遍的な哲学が必要なんだと。

 

 とにかく器の大きな人、それが梅原さんに対するイメージだ。大きなストーリーを描けるし、世界の言語、歴史にも精通しておられ、しかも知的な喧嘩もめっぽうお強い(笑) 晩年は何度かガンの手術もされて、それでいて必ず蘇る不死鳥のような方だった。なんだろう、好き嫌いは別として、中曽根、ナベツネ瀬島龍三あたりと巨星イメージがかぶるのだが…(笑) 

 

 そうそう梅原さんが創作した市川猿之助主演の「スーパー歌舞伎」に亡くなった母と何度か観に行ったことがある。特に「ヤマトタケル」はワクワクしどうしだった(見せ場は元祖宙吊り)。そんな思い出をいただけただけでも個人的に梅原さんには感謝申し上げたい。

 

 最後に、生きとし生けるものの中に、新型コロナウィルスは含まれるのか、梅原さんに質問してみたい気がしてきた(笑) もっと言えば、この時代にどんな大きなストーリーが描けるのか、巨星梅原猛の声が聞きたくなった。

 


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人間の本質は自由である

第2回 『人間自身 考えることに終わりなく』池田晶子、新潮社

 

 今から25年前、八重洲ブックセンターに立ち寄ると気品漂う一人の女性がサイン会を行っていた。よく見ると池田晶子さんで、思わず列に並んでしまった。ファンというより、彼女の言動に尊敬に近い感をいだいていたと思う。「何かお勉強されてるの?」と聞かれたので、「はい、ヨーロッパの比較政治を」と答えたところ、「私が一番興味のない世界のお話ね」と微笑まれた。さすが魂の人、池田晶子、お世辞無しね、それでいい、それでいい(笑)

 

 本書はそんな池田さんのエッセイ集で、特に面白そうな「男女は平等である」をレビューしたい。

 

 池田さんは男女の平等・不平等の問題に興味がないという。(フェミニズムなど)そちらの業界からは「女の敵」扱いされているらしい。なぜ関心がないかと言うと、男女間の区別はあるが、それが人間にとって本質的な問題でないからだと言う。確かに男女間の差別は存在するが、生存そのもの(生き死にの問題)に男女間の区別は存在しないからだと。「男女は平等である」と喝破する所以である。

 

 また論理的に考えて、「男」一般、「女」一般は存在せず、存在するのは個々別々の男女だけで…性別と存在の不自由さは、自分を日本人と思い込むことの不自由さと同じだと。たぶん池田さんにはアイデンティティーの問題もないのだろう(笑)

 

 この彼女の言葉の強さはまさに市井の哲学者ならではで、ソクラテス(もしくはその悪妻クサンチッペ)も顔負けである。哲学的には、属性(attribute)と本質はまるで別個で、「人間の本質は自由である」と確信している。20世紀に入り社会学の父マックス・ウェーバーが「意識が存在を規定する」と主意主義(voluntarism)を唱えるが(マルクスはこの反対)、思考主義という点ではデカルトウェーバーも池田さんも同じ様に思える。

 

 日本人は特に属性を大切にする。まさに「属性人」(homo attributo)と言えよう。学校名、会社名、居住地域がとにかくすべて、これでは不自由なわけである。スマップの「世界に1つだけの花」でも聴いて、脱属性人への第一歩を踏み出したい。そう、ジャニーズやめても、それで終わりではないんだ(笑)

 

 池田さんは2007年になくなられたが、彼女の本質は魂の言霊として今でも読める。「少しは成長したわね」なんて微笑んでもらえるよう、これからも本質を考え続けていこう。はじめてサインいただいた淡い思い出とともに…


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ひと休み

Breaktime

 

 いや~久しぶりに短時間で文章書きました。読書ブログということで、①筆者の伝えたいことを簡便に伝えられているか ②僭越ながら、感想及び評価を書けているか ③「読者」の興味を引ける内容の本を選択できているか などを念頭に試行錯誤いたしております(笑)

 

 初回は保守派の論客、佐伯啓思京大教授。著書の数も多く、新聞などで名前くらいは聞いたことがあるぞ、という方が多かったのではないでしょうか?

 

 ところで皆さんは「グローバル化」という言葉をいつ頃から意識してますか。私の高校時代までは「国際化」が一般的でした。ちなみに国際人の訳としてinternational manは✕(これでは二重国籍だと思われます)で、international-oriented manが○です。

 

 話を戻しますが、冷戦下では国家(nation state)が国際政治の主要アクターだったわけですが、それ以降は国際機関や多国籍企業NGOなども重要なアクターとなり、現実的に国家の持つ意義そしてパワーは相対化されている。

 

 世界史を俯瞰すれば、18世紀の重商主義も19世紀末の帝国主義グローバル化と言えなくもないが、21世紀ほど国家の役割が相対化される変化の波はない。それゆえ国家の役割を再考しなければならなくなる。

 

 新型コロナウィルスの問題はその事を明示してないだろうか?ウィルスはまさにボーダーレスで、その対応に国、地方公共団体、企業、そして国際機関との連携が必要なことは間違いない。もはや国際化時代の産物のような法体系(特措法など)や縦割りの行政指導ではこの難局を乗り越えるには無理がある。

 

 グローバル化の時代に『国家の退場』は起こらない。それだけに政治家も国民も国家の役割に関してバージョンアップする必要があるのだろう。アメリカにおけるその最初の反作用がネオコン(ブッシュJrやラムズフェルドら)によるアメリカの世界警察化であったが、捏造された証拠では彼らの「強い政府」は正当化されはしなかった。(確か、ラムズフェルド人工甘味料会社のオーナーもしています(笑))


 『国家の退場』はないと言ったが、国際政治経済の舞台から日本が退場を余儀なくされないように、日本もみんなの知恵を振り絞り、試行錯誤でバージョンアップしなければならない。

 

 第1回に書けなかった思いつきをBreaktimeとして書かせてもらいました。では、第2回をお楽しみに…