「本当の私」探し

第5回 『私とは何か』平野啓一郎講談社現代新書2172

 

  会ったこともないのに気になる人がいる。同世代なのに群を抜いて才能があり、嫉妬してしまうほど華麗な文章を書く人、それが平野啓一郎さんだった。京都大学法学部在学中に最年少で芥川賞を受賞するなんて…「怪物君」の登場だと感じたことを覚えている(ちなみに審査員の中で平野の受賞に反対したのは石原慎太郎だけであった)。『日蝕』『一月物語』と立て続けに発表された彼の作品は難解さとエロスに満ちており、20代そこそこの私にはやっつけたい知的対象であった。しかし長編『葬送』を前にその好奇心もあっけなく砕けた(笑) それからはもっぱら平野さんのエッセイの読者となった。

 

 本書では彼の小説の登場人物に焦点を当てながらも、社会・心理学的に「人間」とはなんぞや?という問いに対しての回答を行っている。そこでまず最初に「個人」(individual)を吟味する。これはよく聞く話だが、この単語はin+dividualから成り、文字通り「分割不可」の意味であったが、ルネサンスや近代の宗教・政治分野での革命の後、「個人」の意味が確立されたんだと。人間中心主義に復古したルネサンス、神(聖書)と信者の関係を重視した宗教改革、そして一人一人の参加によって権力の在り方が決まるデモクラシーと、まさに暗黒の中世に光が射し込み(→enlightenment「啓蒙」)、一人一人が「個人」としてクローズアップされた象徴がこのindividualであったのだろう。(日本で明治時代に翻訳されたのは周知の通り)

 

 確かに私たちは個人の在り方を次のように考えている。まず核に「本当の自分」=自我があり、その回りに表面上、色々な顔をした私(仮面、ペルソナ、キャラ、嘘の自分など)がいて、ちょうど桃のような構造をしていると。これに対して平野さんはこう反論する。実体がなく幻想に過ぎない「本当の自分」を唯一無二のものとして考えてはいけないと。そうではなくあなたが大好きなAさんに見せる顔も、怖い先生のBさんに見せる顔も、たまたま乗ったタクシーの運転手のCさんに見せる顔も、すべて「本当の自分」であると。そこで彼は個人(individual)に代わって「分人」(dividual)という概念を作り出す。一人の人間は複数の分人のネットワークであり、「本当の自分」という中心は無いんだと。

 

 会社で後輩いじめ専門のお局D子が、家庭ではとても優しいお母さんであることもある。家庭での彼女も職場での彼女も「本当の自分」である。銀行のお堅い支店長EさんがSMクラブでMの上級者であることもある。昼の彼も夜の彼もどちらも「本当の自分」なのだ。こういった平野さんの見方は実体が伴うだけに説得力がある。

 

 彼の作品の『顔のない裸体たち』は、出会い系サイトで知り合った男女が「顔のない裸体」投稿にのめり込んでいく姿を描いた作品である。リアルな世界の自分が「本当の自分」なのか、ネットの世界の自分が「嘘の自分」なのか、はたまたその逆なのか、リアルとネット世界の間に本当と虚構の境界線を引くことの困難さが、そこでは描かれている。この作品などを経て彼は全部「本当の自分」じゃんと思索を深めていったようだ。

 

 逆に私達が学生の頃にやや流行っていたポストモダンのように、人間を玉ねぎと捉え、社会的関係性や属性を剥ぎ取っていったら何も残らず、「本当の自分」なんて最初から無いんだと考えることにも彼は嫌悪感を抱く。確かに実体として感覚のある事柄を観念でゼロにされては不満なのだろう。近代哲学者デカルトの「我思う、故に我あり」を否定することがポストモダンなのだろうけど、平野さんでなくてもちょっと閉口してしまう。(笑)

 

 では「分人」の総体からなる人の個性はどう捉えられるかというと、それは決して生まれつきの生涯不変のものではなく、他者とどう付き合うのかで、自分の中の分人の構成比率が変化し、その総体が個性となると。なるほど他者との関係性に基づく分人の量と質の在り方がその人の個性を決めるのだ。例えば、ストーカー事件などは被害者は(加害者を全く知らない場合)分人でもないのに、加害者の一方的な分人としての構成比率拡大という非対称性が生んだ悲劇とも言えよう。平野さんのこの分人の概念の優れた点は、人間を文字通り他者との関係性の中で捉えようとすることであり、社会学的な視点が豊富なところであろう。(文学部じゃなくて、法学部出身てことも影響してるのかな?)

 

 そして平野さんは彼らしく最後に人間の大問題の「恋愛」について語りだす。「恋」は一時的に燃え上がって何としても相手と結ばれたいと願う激しく強い感情(=エロス)、一方「愛」は関係の継続性が重視(=アガペー)される概念だと。前者は三島由紀夫、後者は谷崎潤一郎が得意とするところですね。さて「恋愛」の問題はやはり愛の継続性ということになる。継続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相互のお陰でそれぞれが自分自身に感じる何か特別な居心地の良さだという。シンプルに言えば、「愛」とはその人といる時の自分の分人が好きという状態、つまり他者を経由した自己肯定の状態となる。な~んだ、enjoy myselfじゃん(笑) 「お前がいるから俺は幸せ」+「あなたがいるから私は幸せ」、互いにかけがえのない存在、これが「愛」の継続性なんですね。

 

 人生の大先輩(女性)によくある遠距離恋愛の相談を軽くしたことがある。一緒にいる時は楽しいんだけど、会えない時間が長いと不安なこともあると(笑)(郷ひろみにならい「会えない時間が愛育てるのさ」とはいかないよ) 大先輩いわく「会ってる時、お互い楽しいならそれでいいじゃない」と。正直、会ってる時が「本当の彼女」なのか否か私はその時点では疑心暗鬼になっていたのだろう。大先輩はそれ以上言わなかったが、発想は平野さんと同じなんだろうと今回理解できた。会ってる時の彼女も「本当の彼女」、離れている時の彼女も「本当の彼女」ということだ。問題はお互い会ってる時にいかにenjoyするのかということだけだ。

 

 やはり人生の大先輩の言うことは聞かないとダメですね(笑)

 

 最後にもう一点。仮に桃型の個人概念なら、浮気を「(本当の自分ではなく)間違った自分が行ったことでございます(→魔が差した)」と言い訳もできるが、分人モデルではどの分人も本当の自分となるわけで、その分言い訳が成り立たない。かつての大富豪のように、奥さんも愛人も幸せにできる度量(経済力だけでなく、関係者の理解も必要)がないのなら、夜遊び程度でおさえておかないと痛い目にあいますよ。(笑) 世のお父様方、要注意ですぞ‼️

 

愛は勝つ と歌う青年

愛と愛が戦う時はどうなるのだろう

俵万智

 

 


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